アドラー思想を生きる 長谷川雅一の日記

2016年10月23日(日)

 昨日から僕は、突如として「小説」を書き始めました。
 小説を書き始めるに至った経緯を書くと長くなってしまうので、ここには書きません。
 僕が書き始めた小説のテーマは「心と宗教」です。
 僕が考えてきた、そして体験してきた「心と宗教」について、どうしても小説という形で書きたくなったのです。
 小説を書きたい、書かねば、と思うようになったのは1ヵ月ほど前でしたが、ふだん小説をまったく読まず、小説をきちんと書き上げた経験もない僕にとって、「そもそも小説をどう書いたらいいのか?」がわかりませんでした。

 そこで小説の入門書など読んでみたのですが、どうも参考になりません。
 僕はその入門書を捨てて、今までに読んだ数少ない小説の中の1冊を読み返してみました。すると、「おそらく、こう書けばいいのではないか」という「小説の書き方」が見えてきました。
 じゃ書いてみようかと、今まさに書き始めたところです。

 小説(のようなもの)を書いてみて、小説という「道具」がいかに便利なものかが、よくわかりました。
 真実と想像をごっちゃにして書けるので、何でも表現できるのです。
 まるで、「どこでもドア」を手に入れたような感覚ですね。
 いえ、ドラえもんのポケットを得た感覚(万能感)かもしれません。

 一般的に小説はフィクションですが、僕が小説に書きたいのは「現実」であり「真実」です。
 小説につきものの「想像」や「虚構」は、僕にとって書きたいことを表現するためのテクニックでしかありません。
 ここ(想像や虚構)を広げてしまうと、また、ここ(想像や虚構)にあまりにも踏み込んでしまうと、意図せぬ方向(つまりは真実でも現実でもない方向)に進んでしまいかねませんので、注意しつつ書かなければ、と思っています。
 要するに「どこでもドア」を使いすぎないように書くということです。

 ただ、逆に真実だけで固めてしまうと、こんどはプライバシーへの配慮がなくなってしまい、不幸にして僕の小説に登場するハメになった人が、「あ、これオレのことじゃないか」ってわかってしまう。それはいけないことなので、そうならないように注意しなければなりません。
 そのため(プライバシー保護のため)に最低限の「想像と虚構」を使おう、と考えています。
 ただし、いわゆる「有名人」は、そのまま登場しちゃいます。

「小説はウソでいい」「小説の基本線が現実でなくても真実でなくてもかまわない」というのが、小説の常識であることは知っています。
 でも僕は「現実」「真実」を基本線にした小説を書きたいし、僕にはそれしか書けないと思います。

 今書いている小説を、いつどんな形で発表できるかは、まったくわかりません。
 とりあえず今は書くのみです。

 今年、年初にも雑文を書きまくっていました。
 かなりの分量を書いたのですが、まだ発表できる形にまで持っていくことができずにいます。
 今回の「小説」へのアプローチの中で、年初に書いた雑文たちも、うまく「回収」して小説に取り込めればと考えています。

「心と宗教」をテーマに小説を書き始めてみて、「これはもう止まらないかもしれない」と感じています。
「ランニング・ハイ」ならぬ「ライティング・ハイ」になるのです。

 この状態が続くのかどうかもわかりませんが、とりあえずの現状報告でした。

2016年10月22日(土)-2

「またYouTubeをやりたい」と思っています。
 本当に何でもない普通の話を動画にしたいと。
 台本も書かず、動画の効果もつけず、BGMもなく。
 本当に伝えたいことを、動画の形で残しておこう。
 そう思っています。

2016年10月22日(土)-1

 最近、シンギングボウルという楽器に凝っておりまして、ネットで物色しては購入しております。
 これはいわゆる「お鈴(りん)」ですね。仏壇にある。
 僕はもともと、お鈴やお寺の鐘に興味があったのですが、実際にシンギングボウルを手にして鳴らしてみると、「これだ」と思うわけです。
「これこそが、僕の演奏したい楽器だ」と。ギターじゃなかったと。(笑)
 そんなわけで、最近は、ギターを弾かない日はあってもシンギングボウルを鳴らさない日はないのです。

2016年10月16日(日)

 最近、「マイクロソフトのWindows10が、勝手にアップデートされて困る件」や、その件をDellコンピュータに問い合わせた結果、Dellから、
「パソコンをネットに接続せずに使うか、Windows10以外のOSを購入してください」という回答が来た件を、ツイッターでつぶやきました。
 上記の回答については、つまり「Windows10を使うな」という意味で、ユーザーとしてはトラブルの解決になりませんから、ちと「呆れて」つぶやいたわけです。

 そしたら、「怒りで反応しちゃダメでしょう」というレスがきました。(笑)
「あなた、自分でそう言ってたくせに、怒ってるじゃないか」と。(笑)

 実は、この件について、僕はそれほど「ムカついた」わけではありません。でも、怒りがゼロだったか? と言われれば、ゼロではありませんでした。
 つまり、多少なりとも「怒りで反応してしまった」ことは事実です。

 でもさ。(笑)
 僕は、アドラー心理学についても仏教についても、もう悲しいぐらいのアマチュアですから。(笑)
 なるべく怒りで反応しないように気をつけてはいるけど、完全にできているわけじゃありません。

 お釈迦様は言いました。
「ノコギリで体を切られても怒ってはいけない」と。
 僕が一生かかっても、そんな境地に達することができるかどうかは、わかりません。

 今日、小池龍之介さんの『苦しまない練習』を読んでいたら、
「何か人に説教する場合は、自分が完全にできてからにしなさい」という記述がありました。
 つまり、人に「怒っちゃダメだよ」と「説教」したかったら、自分が「怒らない人間」になってからにしろ、と。

 僕は、「怒りで反応する人はリーダーにふさわしくない」とは書きましたが、みなさん「怒りで反応してはダメですよ」と「説教」はしていません。(笑)
 ま、でも、これを「説教」ととらえる読み方もあるんだろうな...。
 もうちょっと謙虚な感じで、弱々しく書くべきだったか。(笑)

 でも、僕は、「こうした方がいいみたい」ということは、積極的に書いたり言ったりしたいと思っています。
「自分が完全にできてから言う」となったら、一生沈黙していないといけませんよね? でも、僕の未熟な意見でも、少しは世の中の役に立つかもしれないと思うわけです。
 ですから僕はこれからも、「自分が、まだできていないこと」についても、「こう考えた方がよさそうだ」みたいなことを書くと思います。
 まあ、大目に見てやっていただければと思います。

 それから、批判、非難は、していただいてかまいません。
 今回の批判も、「確かにそうだよな。ワシもまだまだじゃのう」と受け入れ、反省いたしました。

 今日書いたことも、批判、非難に対する「反撃」ではなく「言い訳」「釈明」のつもりです。
 実際、以前の僕だったら、「それでもやはり私は正しい」という論調で、批判に徹底的に「反撃」していたことは間違いありません。
 それをやらなくなっただけで、ちょっとは進歩しているんじゃないか、って思っています。

2016年10月9日(日)-4

 日本のリーダー(政治家)達も、アメリカをはじめとする世界のリーダー達も、残念ながら「すぐに怒りで反応してしまう人達」ばかりです。
 彼らの「怒りの反応」が国民に「もてはやされる」ことすらあるわけですから、いかに世界中の人たちが精神を病んでいるかがわかります。

「すぐに怒りで反応するような人は、リーダーとして、ふさわしくない。」
 僕はそう思いますが、違うでしょうか?

「すぐに怒りで反応してしまう人達」がリーダーであり続ける限り、平和な世界は実現しません。
 しかし「怒りで反応する」以外の反応パターンを知らない「動物的」なリーダー達は、これからもずっと、すぐに怒りで反応し、その怒りを増幅させ、その怒りを他国にぶつけ、その怒りで人を殺しながら突っ走るでしょうから、平和な世界は、はるか遠い。

 この絶望的な流れを止めるためには、まず、我々国民のひとりひとりが精神的に向上して、「すぐに怒りで反応してしまうような人達をリーダーにしない(選ばない)雰囲気」を作るしかありません。
 何百年、何千年かかっても、あきらめず。

2016年10月9日(日)-3

 今の世の中、「カネだけ、今だけ、自分だけ」という感覚で生きている人が多いと言われます。
 つまり、カネを得ることが何より重要で、今が面白ければよく、自分だけ問題なければいい、ということです。
 それが現代人の「生き方」になってしまっていて、誰もあまり疑問視しないわけです。
 でも、これでは「人間」の生き方、というより「動物的」「本能的」生き方、ではないか、と思います。
 多くの人が、こんな感覚で生きていて「いいわけがない」と、僕は思います。

 もちろん、生きて行くためにお金は必要だけど、せっかく人間として生まれてきたのだから、お金儲けだけじゃなくて、たとえば、
「毎日、少しでも人格を向上させていこう。より精神状態を安定させよう」という、内面的、精神的成長にかかわる目標も掲げたらどうでしょう。

 こんな世の中だからこそ、人がどうであれ、まずは自分が、精神的な成長を目標に掲げて生きて行くことが大切ではないかと思います。

2016年10月9日(日)-2

 人間は高等生物なので「知る」ことによって「感情」はもちろん「感覚」すら変わってしまうという性質を持っています。

 たとえば、暗闇で何かが動いているのを見れば、とっさに「恐い」という恐怖感が出てくるかもしれませんが、その動いているものの正体がわかれば、「なーんだ」ということで恐怖感はなくなる。
「知る」ことによって「恐怖感」が消えたわけです。

 同じようなことが、「怒り」や「焦り(これも怒りの一種)」についても言えるのではないか、と思います。

 たとえば「怒り」について。
 何らかの原因で「怒り」の感情がわいたときには、「怒り」を消したければ、まず、「なぜ怒りの感情が出てきたのか」を知る必要があります。
 怒りの「原因」を「知る」だけで、先の「恐怖感」の例のように、「怒り」という感情を消すことができる場合があるからです。
 逆に、「自分は、自分の怒りの根本的な原因を知っている」という状態にならない限り、怒りの感情は消えません。

 人間が「怒る」シチュエーションは、いろいろありますが、怒りの「根本的な原因」のほとんどが、言ってみれば「自分のエゴ(わがまま)」です。
 つまり「他人や環境を自分の思うようにしたい」というエゴ。
 自分の「エゴ」の通りに他人が動かないから、自分の「エゴ」の通りに物事が進まないから「怒り」を感じるわけですね。

 たとえば、自分がなにかをいっしょうけんめい「やった」のに、それが認めてもらえなかった、という「怒り」。
 このとき、我々は認めてくれなかった「あの人」に対して「怒る」わけですが、実は、原因は「あの人」にあるわけではなく、「認めて欲しい」という「エゴ」が満たされないことに対して自分で勝手に怒っているわけですから、「自分の問題」なのです。

 もともと、他人はもちろん、環境も出来事も、ひとつとして自分の思う通りになどなるハズがありません。これは「知識」です。
 しかし、人は、そのこと(知識)を忘れてしまう。

 そこで、ムカついたとき、ちょっと冷静になって、
「そういえば、他人も、環境も、出来事も、すべて自分の思う通りになどならないよね」と、世の中ってこういうものだっていう「知識」を確認してみる。
 すると、「叶わないことを願ってもしょうがない」と「あきらめる」ことができるようになり、その瞬間「怒り」も消えるのです。
 これは、原始仏教的な発想です。

 もちろん、10の怒りがあれば、それぞれ原因が違いますから、その原因を、それぞれ「掘り起こして」「分析」してみる必要がありますが、基本的には「自分の思い通りにならないから怒っている」わけで、そこは「共通項」だろう、と思います。

 そもそも、この世の中、「自分の思い通りになど、なるハズがない」わけです。
 となれば、怒りで反応するのは、ただ単に、自分の心を「痛める」だけで、何ら意味のないことだと気づきます。

 また、よく僕らが使う「めんどくさい」。
 たとえば、僕も今日、「ケータイの契約を調べて、iPhone7にするかどうか決めなくちゃいけない。あー、めんどくせ」とつぶやきましたが、これは、
「auになんて(僕はauです)行ってるヒマねーよ。忙しいのに」という、一種の「怒り」であり、さらに突き詰めると、その背景には、仕事のスケジュールが遅れ気味になっていることへの「焦り」もあることに気づきます。

 しかし、僕自身について言えば、別にサボっているわけじゃなくて、土日祭日もあまり休まずに仕事をしているわけで、これ以上やったらカラダが壊れちゃう。
 つまり、そもそも自分が立てている仕事上の「達成期限(〆切)」に無理があるわけで、だったら、「この仕事に、まだしばらく時間がかかっちゃうけど、しかたががないな」って、あきらめるしかない。〆切を延ばすしかないわけです。

 結局、僕の「めんどくさい」のバックグラウンドにもやはり、「自分の思い通りのスケジュールで仕事を進めたいが、それが叶わない」という「エゴ」あるいは「無理な願い」があったことに気づきます。

 同時に、「待てよ。焦っても、それは自分を責め立て、自分を傷つけるだけのことで、かえってストレスレベルが上がって仕事のスピードが落ちるんじゃないか?」ということにも気づくわけです。
 むしろ、なかなか進まない困難な仕事をやっているときほど「リラックス」や「休憩」が必要でしょう、って話です。

 こうして自分の「めんどくさい」を分析すると、そこには「焦り」があり、それは「怒り」であり、その「焦りという形の怒り」のバックグラウンドには、「仕事を早く進めたい」という無理な願い(=「エゴ」)があることに気づくわけで、その「エゴ」を手放せば「めんどくさい」も消えるわけです。

「めんどくさい」の根本原因に気づけば、たとえば、
「10月は忙しいから、ケータイのことは、年内に何とかすればいいか」という「妥協案」も見つかる。
 そうすると心に余裕が出てくる。焦りが消えて、ハッピーな気分になってくるわけです。

 自分のアンハッピー、ストレス、怒りを放置せず、その原因を分析してみる。
 そして、原因を「知る」ことで、マイナス感情を「消す」。
 僕は今、こんな方法で、心の「健全性」を保つようにしています。

2016年10月9日(日)-1

 アドラー心理学を学んで、「人生が変わった」という人へ。
 ぜひ続けて「原始仏教」を学ぶことをおすすめします。
 原始仏教とアドラー心理学には、多くの共通点があります。
 もしかしたらアドラーは、仏教を学んでいたのではないか? と思ってしまうほど。

 そんなことを感じながら、「アドラー心理学 仏教」というキーワードでグーグル検索を行うと、なんと、2010年に、『アドラー心理学と仏教』という本が出ているではありませんか!
 2010年と言えば、まだ『嫌われる勇気』は出ておらず、現在の「アドラー心理学ブーム」も、まだ到来していませんでした。

 さっそく、アマゾンでこの本を注文しました。
 さて、どんな内容なのか。興味津々です。
 
 ただ、この本、ちょっと難しそうですね。
 わかりやすい「原始仏教」の本としては、草薙 龍瞬(くさなぎ りゅうしゅん)先生の『反応しない練習』があります。
 まずは、『反応しない練習』を読まれることを、おすすめします。

2016年9月24日(土)

 アマゾンでAudibleという「本が聴ける」サービスが始まりました。
 もともと「ラジオ系」のコンテンツは大好きなので、早速加入し、Audibleの対象本として並んでいた、草薙 龍瞬(くさなぎ りゅうしゅん)先生の『反応しない練習』と『これも修行のうち。』という2冊の本を「聴き」ました。
 なにげなく、特に期待もせずに。
 この8月のことです。

 この2冊は、いわゆる「原始仏教」の本です。「原始仏教」の要点を、草薙先生が、わかりやすく解説してくれるという内容です。
 この2冊の本を聴いて、ちょっと予想外のことが起きました。
 僕のアドラー心理学の知識と原始仏教が「激しい化学反応」を起こしたのです。(笑)

 アドラー心理学に出会って2年半。
 僕の中でアドラー心理学は、「人生の結論」として、絶対的な存在感を持って「君臨」していました。

 しかし、「原始仏教」を学んで、その絶対的な感覚が揺らいだのです。
 僕は、「アドラー心理学にもスキマがあったのかもしれない」と思い始めました。
 いえ、厳密に言えば「僕のアドラー心理学の理解に、スキマがあった」ということでしょう。
 僕はそれまで、「アドラー心理学は、世の中の悩みの原因と解決法のすべてを完全に網羅している」と考えていたのですが、そうではなかったかもしれない、と感じるようになったのです。

 また、「原始仏教」を学んでみて、アドラー心理学には「ワナ」があるのではないか、という気づきがありました。
 そして自分は、その「ワナ」に、まんまとはまっていたと。
 その「ワナ」とは、僕が、知らず知らずのうちに、アドラー心理学の「目的論」を武器のように振り回していた、ということです。
 つまりは「目的論の乱用」あるいは「目的論の誤用」という「ワナ」にはまっていたのです。
 僕がこの「ワナ」にはまったのは、アドラー心理学の欠陥ではなく、アドラー心理学の理解が浅かったからだと思います。

 具体的に、僕がどのように「ワナ」にはまっていたか、説明します。
 たとえば、自分が人に理不尽な仕打ち(と自分が判断する事象)を受けて「怒り」を感じたとします。
 そんなとき、僕は反射的に、即座にアドラー心理学的に「目的論」を使って分析することが習慣になっていました。

 まず、自分の「怒り」に対して、
「ああ、僕は今、怒りという感情を作り出して、自分が正しいことを証明したい。相手を屈服させたいという『目的』を叶えようとしている。これは間違っている」などと、目的論で自己分析します。

「アドラー心理学を学んだ」と言っても、たかだか『嫌われる勇気』を15回ほど読んで、要点をまとめた程度の僕ですから、この分析自体が間違っている可能性も高いわけですが。

 いずれにせよ、さらに僕は分析します。こんどはその「理不尽な仕打ち」をした、相手を「目的論」で分析しにかかるわけです。

 たとえば、「あいつは、社会的に認められていない。だからオレを攻撃することで、優位に立ったような気になって自己満足を得ようとしているのだ。要するにオレ対する発言は、『優越コンプレックス』的な行為なんだ。もちろん、その裏にはヤツの強烈な劣等感が隠れている。オレが、そんなあいつ劣等感解消のためのターゲットになるとは、いい迷惑だ。しかし、ここは課題の分離だ。あいつの劣等感とオレは関係ない。だから、気にする必要はない」などと。

 これまた、僕の未熟な「アドラー心理学的な分析」が正しいかどうかも、わかりません。
 とりあえず、こうした分析で、なんとなく「スッキリして」少し怒りが消えます。
 しかし、「それにしても、あいつがオレに対して、あんなことを言うとは。まったく腹が立つ」と、ぶり返すわけです。

 すると、
「あ、また怒りが出てきた。しかし、オレは今一人で怒っている。これって、アドラー心理学的に何なんだ? もしも目の前に相手がいれば、オレは相手を屈服させたいと怒っているわけだが、相手は今、目の前にいない。とりあえず相手を屈服させようという目的とは関係ない。じゃあ、この怒りは何だ? 承認欲求から来ているんだろうな。うーん。とにかく『怒り』はダメなんだよ。ダメ。そうだ、相手を信頼しなくちゃいけないんだ。無条件で。え? あいつを無条件で信頼する? バカ言え。できるわけないだろう。あんなヤツ、信頼どころか信用もできないし、顔すら見たくない。そうか断ち切っちゃえばいいのか。関係を断ち切る。それもアドラー心理学的には自由なはず。とにかく怒っちゃいけないんだ」などと。

 しかし、僕に限らず、アドラー心理学を学んだ人なら、以上のような「目的論による分析」あるいは、「アドラー心理学的な分析」を持ち出して、あれこれ分析して、自分の怒りをなんとか解決しようとするはずです。

 これはおそらく「怒り」というトラブルに対する、「アドラー心理学っぽいアプローチ」ではあっても、本当に「アドラー心理学的なアプローチ」ではないのだろう、とも思うわけですが、僕程度の、つまり、アドラー心理学を書物だけで読み、「知った気」「わかった気」になっている人なら、誰でもやることではないか、と思うわけです。

 そんな感覚で生きていた僕は、だから、アドラー心理学を学んでも、「怒り」の感情に苦しむことがありましたし、その「アドラー心理学的な分析」で、なんと「怒り」が増幅されることすら、あったのです。

 前述のように「目的論による分析」を、武器のように振り回す状態になる。
 それによって、相手を裁く。そのとき「自分は相手よりレベルが高いのだ」というおかしな優越感を持つ。しかし「自分もダメである」と自分をも裁く。
 つまり、相手を攻撃し、同時に自分をも攻撃して、アドラー心理学の「目的論による分析」で、相手も自分も(もちろん現実の世界でのことではなく、自分の心の中で)「血まみれ」のような状態になってしまうのです。
 そのとき「怒り」は、消えるどころかむしろ増幅されている。
 これが、僕の気づいた「アドラー心理学のワナ」です。

 そんな状況で、しかし「アドラー心理学がすべて」だった僕は、そのワナにはまっていることに気づきませんでした。

 そんな僕が「原始仏教」に触れて、どうなったか。
 そもそもの「怒り」がわいてくることが減ったのです。
 怒りが出てきたあとで、それを分析するのではなく、そもそも怒りそのものが出てこない。
 だから、目的論を使って分析する必要もなくなりました。

 自分の未熟さを恐れずに書けば、
「アドラー心理学には、残念ながら、そもそもの怒りの感情が出てこないようにする方法は提示されていない」ということになります。

 原始仏教を学ぶ前の僕は、「腹の立つこと」があると、それを「アドラー心理学」で分析して、得意げに妻に聞かせていました。
「ヤツの目的はこうだ。オレの分析はこうだ」などと、割とハイテンションで。

 最近の僕はと言えば、「腹の立つ話」そのものが減りました。
「アドラー心理学による分析」を得意げに妻に話すこともしなくなりました。
 ...ときどきやりそうになるのですが、途中で「なんちゃって。これはまあ、僕の判断だね」みたいになって、分析をやめてしまうのです。

 そして、僕はアドラー心理学「だけ」だった頃より、さらに「ハッピー」で「らくー」になりました。
 そして、気に入らなかった誰かや、心の中で戦っていた誰かに、やはり心の中で、
「ありがとう」が言えるようになりました。

 これは、アドラー心理学を批判しているわけではありません。
 僕の「未熟さ」を吐露しているに過ぎません。
「アドラー心理学」を振りかざし、得意げに「目的論による分析」を披露しつつ、相手や自分を、その「分析」で「攻撃」していた自分の「未熟さ」「愚かさ」を。

 僕は、アドラー心理学を学んで「人生が変わった」のです。それは事実です。
 そのとき僕は、あたかも自分という人間が「完成した」かのような感覚すら持ちました。
 あらら、とても恥ずかしいですね。(笑)
 とてもとても、そんなレベルではありませんでした。

 しかし、アドラー心理学を学んだおかげで、原始仏教との「化学変化」も起きたわけで、やはり、アドラー心理学がなかったら、僕は、原始仏教に興味すら持てなかったと思います。
 アドラーさんとお釈迦様に、感謝感謝です。

 これからも、いろいろな思想を学びながら、少しずつ、進化して行きたいものだと考えています。

2015年10月16日(金)

 アドラー心理学を心の基盤にするためには、学び続けることが大切だと思います。

 幸い、岸見、古賀、両先生のご尽力のおかげで、書店に行けばアドラー心理学の本が「山ほど」売られている状態になりました。
 僕の書棚に並ぶ、アドラー心理学の本も、いつのまにか30冊ほどに増えています。

 アドラー心理学について書かれた、いろいろな著者の本を読むと、また違う角度からアドラー心理学を見ることができ、新しい学びや気づきがあります。

 アドラー心理学に出会って1年半が過ぎ、今は、日々の生活でしっかりアドラー心理学を実践することを目標にしています。

 実際にはどうかというと、たびたび、アドラー心理学から外れている自分がいます。
 しかし、アドラー心理学を学んでいますから、自分がどう「外れて」いるのか、それはなぜか? また、それをどう修正すればいいのか、といったことが瞬時にハッキリわかるわけで、これは、とてもありがたいことです。

 たとえば最近、少し「イライラ」している自分がいました。
 その「イライラ」している姿を、僕はパートナー(妻)に見せたのですが、そこには、「僕は今、仕事が大変なんだ。イライラするぐらいがんばっているんだ。わかってくれてるの?」と、自分のがんばりを、パートナーに認めさせようとする、あるいは、自分を丁重に扱わせようとする「目的」があったわけです。

 でも、次の瞬間、
「あらら。承認欲求が出てきちゃってるね。ダメじゃん」と気づくわけです。
 気づいた瞬間に修正する。
 つまり、
「こういう態度をパートナーに見せるのは、やめよう」と決意する。
 その繰り返しです。

 アドラー心理学から外れてしまったら、日々の幸せがなくなってしまうわけですから。

2015年7月19日(日)

 2014年2月末にアドラー心理学に出会い、もうすぐ1年半です。
 この間、何度、
「アドラー心理学に出会っていなかったら、僕はここで落ち込んでいたに違いない、怒っていたに違いない、傷ついていたに違いない...」などと思ったことかわかりません。
 つまり、僕は毎日、アドラー心理学に救われているわけです。

 ただ、やはり「仕事が楽しくて仕方がない」ために「過労になりがち」という状況に変わりはなく、ここは、なんとかしないといけません。

 今日、2014年9月14日の日記を読み返して、あらためて、アドラー心理学が自分の音楽活動を変えてくれたことの意味を考えました。

 つい先日(2015年7月2日)、僕は自作のギター曲の楽譜を世界的なギター奏者である、福田進一さんにお渡ししたのですが、こうした行為も、アドラー心理学に出会っていなければできなかったことです。

 アドラー心理学以前の僕だったら、「99%の確率で、作品を認めてもらえない」ことがわかっており、「自分の作品を認めてもらえないことに耐えられない」僕は、福田さんに楽譜を渡すことができなかったでしょう。

 福田進一さんに、自分の曲が演奏してもらえる可能性は、実際、限りなくゼロに近いわけですが、しかし完全にゼロではありません。
 楽譜をお渡ししなければ何も始まらないわけです。

 ...まあ、今日現在、なんのご連絡もいただいておらず、やはり「ボツ」だった可能性が高いわけですけどね。(笑)

 今日も、自分が所属する合唱団で、もしかして歌ってもらえないかと考えて作曲をしていますが、この作品も、おそらく「ボツ」なのです。(笑)
 演奏してはもらえない。
 だって、依頼されたわけでもありませんからね。

 ボツでもいい。自分は創りたいから創る、というのが、アドラー心理学的発想です。
 曲を書くのが作曲家。それだけの話です。
 そこに、みじめさはありません。

2014年9月14日(日) ミュージシャンは不健全?

 僕は長く音楽に関わってきました。今も自分でギターを弾いたり、歌ったり、作曲したり、合唱団に所属したりといった「音楽活動」を続けています。
 一般的に「音楽を愛する人は、心優しい『よい人』に違いない」と見られていることが多いように思われますが、実際のところ、ミュージシャンはかなり精神状態が不健全で危ういことが多いのです。

 まず、ミュージシャンは「承認欲求のかたまり」であることが多いのですが、ここが大きな問題になります。
 つまり、多くのミュージシャンは、誰かに自分の音楽を認められたい、できるだけ多くの人に自分の音楽を(作品や演奏を)ほめられたいと願っています。
 他者に承認されることで、自分の音楽はライバルより優れている、ライバルに勝っていると確信したい。そうすることによって自分の「存在価値」を確認したいのです。
 ミュージシャンは「承認欲求」を満たされたい一心で動いていると言っても過言ではありません。
 また、ミュージシャンは常に他者との比較と競争の中で生きています。誰が1位だ、誰は2位だと、他者との競争を意識せざるを得ない部分があります。しかし、競争に生きている限り人は心の平和を得られませんし、ミュージシャン仲間も「仲間」ではなく「敵」になってしまいます。

 ミュージシャンは、ほめられれば喜びますが、それは「オレは他者より勝っている」といった、どこか不健全な感覚が入り交じった喜びであることが多いように思います。
 逆に自分の音楽が認められなければ「オレの音楽がわからないあいつらはバカだ」と、自分をほめてくれない相手を心の中で批判したり、「ふふふ。オレの方が勝っているに決まっているのだ」などと、勝手に「勝ち負け」を決めて一人悦に入ったりします。
 こうした「不健全さ」を心の内に隠し持っているのがミュージシャンという生き物であり、だからミュージシャンは、しょっちゅう「仲間割れ」や「いがみ合い」をやっています。

 僕もかつては「自分の音楽を認められたい」と思っていました。しかし今は、そんな気持はまったくありません。
 作曲をして、作品を楽譜にして音楽仲間に提示しても「ふーん。作ったんだ」で終わることが多く、演奏もしてもらえないし、感想すら述べてもらえないことが多いのですが、当たり前でしょう。
 そもそも自分が音楽を作るのは「作りたいから作る」のであり、自分の必要性に応じて創作活動をやっているのです。他者の評価や承認など関係ありません。

 僕は自分で歌を作って歌いますが、オリジナルソングの世界も、好き嫌いが激しく評価が大きく分かれる世界であり、ほめられたりけなされたりします。これも当たり前です。
 もちろん、「音楽活動において他者から評価や承認を求めない」という今の僕の感覚も「アドラー心理学」を学んで得られたものであり、アドラー心理学を学んで以来、僕は、気負わず楽しく、音楽活動ができるようになったのです。

 しかし、多くの音楽仲間達は、今日も「承認されたいのに承認されない」という状況に、もがき苦しみ、その苦しみの中で人を批判して自己嫌悪に陥り、あるいは、人と比べて劣等感やゆがんだ優越感を抱くといった、複雑な心理状態の中で生きています。
 おまけにミュージシャンは経済的にも苦しいことが多く、あらゆる面で精神状態が不健全になりやすいのです。
 僕は、ミュージシャンこそ、アドラー心理学を学ぶべきだと思っています。

2014年9月5日(金) 苦しそうな人たち

 世の中には苦しそうな人が多い。そう思います。
 特に自分の仕事が辛いという方は不幸です。日々が苦しみになってしまうからです。
 自分の仕事が辛くてたまらない人は、自分が辛いだけでなく周りにも負の影響を及ぼしてしまいます。
 そういう人は、どうしても同僚や部下、仕事で会うその他大勢の人たちに当たったりしてしまうからです。
 
 自分の仕事が辛くてたまらない人は、
「部署を変えてもらえば辛くなくなるのでは」とか、
「仕事を変われば楽しくなるのでは」とか、
「旅行すれば気が晴れるかも」とか、
「引っ越せば大丈夫」などと思うかもしれませんが、おそらく何をしてもたぶんダメです。辛いままです。

 仕事観は人生観と重なり合います。
 仕事が辛い人は、人生全般が辛い人である可能性が高いと思います。
 結局のところ、世の中をどう見るか、さまざまな出来事をどう意味づけるか。
 そこのところが間違ってしまっていることが、仕事や人生の辛さの原因になっているのだと、かつて自分も「辛い人生」を生きていた僕は、体験的に思うのです。

 どうしたらいいのか。とりあえず『嫌われる勇気』を読みましょう。
 きっと何かが変わるはずです。

2014年9月4日(木) アドラー思想とビジネス

 僕は、22歳のときにギターの専門学校を卒業してから、ずっと、いわゆる「就職」というものをしたことがなく、今日まで自営業で生きてきました。
 自分でビジネスを創り、自分で創ったビジネスで飯を食ってきた、ということです。
 ビジネスマンとしての僕が、アドラー思想に出会って実感しているのは、
「アドラー思想を基本にしたビジネスは最強、無敵である」ということです。
 事実、

  • 「いまここ」に集中するエネルゲイア的(現実活動態的)な生き方
  • 課題の分離
  • ライフスタイルの選択

 などの、アドラー心理学の「技法」が、僕のビジネスのあり方を根本から変えてしまったからです。

 2011年以降、僕は自分がやっていた「投資助言業」というビジネスをやるのが辛くなり、何度も「やめたい」と思っていました。2013年には、実際に会社を売りに出したほどです。(この会社売却計画は、結局実現しませんでした。)
 しかしアドラー思想に出会って、僕は「投資の仕事を続ける」と決意し、今は日々、ゆるぎないモチベーションと活力の中で投資助言業に取り組んでいます。

 どうしてこうなったのか、僕の中で具体的に何がどう変わったのかについては、このサイトでのちに詳しく書きたいと思っていますが、モチベーション、実務、企画、営業など、ビジネスのすべての要素について、アドラー思想が大きなプラス効果をもたらしてくれています。

 アドラー思想のビジネスへの応用は、僕のような自営業者だけでなく、会社で働くビジネスマンにとっても有効だと思います。
 アドラー思想は、様々なビジネス書のベースとなっているので、当然と言えば当然のことですが、ぜひ、『嫌われる勇気』などの書物を読み、直接、アドラー思想に触れていただきたいと思います。

2014年9月1日(月) アドラー心理学太り

 アドラー心理学はいいことずくめですが、1つ困ったことがあります。
 それは、あまりにもストレスレベルが下がるために太ってしまうことです。(笑)

 僕の場合、62キロ台がベストなのですが、アドラー心理学に出会ってから2キロ以上太ってしまい、一時65キロに接近してしまいました。
 現在、ふたたび63キロ台に落ちてきましたが、それでもベスト体重よりは1キロ以上多い状態です。
「ハッピーの代償が肥満」にならないよう、しっかり体重コントロールをしようと思います。

 でもハッピーな精神状態で多少太り気味になったとしても、ストレスいっぱいで痩せているよりは、むしろ健康的かもしれませんね。

2014年8月30日(土) 自己受容という武器を持つ

 アドラー思想を基本に生きているということは、常に「自己受容」ができているということです。

「自己受容」とは、ありのままの自分を認めることです。
 今60点であったとしても、60点の自分を受け入れ、自分を責めない。
「さあ、これから100点を目指そう」と、ただ前を向いて歩く。誰と競争するわけでもない。それが自己受容です。

「自己受容」の習慣を身につけてわかるのは、これは武器であるということです。「武器」とは物騒な言葉ですが、「身を守るための強力な道具」と言い換えれば、おわかりいただけるでしょうか。
「自己受容」は自分の身を、心を守るための「武器」だと、僕は思うのです。

 アドラー思想を基本に生きていなければ、ここは自分を責めるだろう。ここはイライラするだろう。ここは自己否定に陥るだろう。
 この半年間、そんな場面を何度も切り抜けることができているのは「自己受容」という「武器」のおかげだと、しみじみ思うのです。

2014年8月26日(火) アドラー心理学と過労

 アドラー思想を基本にしてビジネスをやっていると、どうしても過労になりがちです。(笑)
 これは僕だけかもしれません。また、過労になってしまうこと自体、まだアドラー思想を十分に理解していない証拠かもしれません。

 なぜ過労になるのか? それは、ストレスレベルが極端に下がるためです。
 わかりやすく言えば、仕事が楽しくて仕方がないような状態になってしまうのです。
 それで過労になりやすいというわけです。

 これまで僕は少なからず他者から承認されることを求めて仕事をしてきました。
 この仕事のスタイルはストレスフルなので、そのストレスが仕事を邪魔してくれていました。
 しばしば「もう、やってられねえよ」という状態に陥ったわけです。
 となれば、休むことができます。

 また、いわゆるキーネーシス的な感覚で仕事をしてもいましたが、そうすると、なかなか日々の仕事に満足感が得られないため、やはりストレスが大きくなり、そのストレスが仕事を邪魔してくれていました。
 やはり、「もう、やってられねえよ」と休むことができました。

 しかしアドラー思想的なワーキングスタイルでは、「承認欲求」のために仕事をするわけではないのでストレスがありません。
 したがって、際限なく働いてしまう。(笑)
 また、エネルゲイア的な感覚で仕事をすることにもなるため、日々の仕事に、そして仕事の瞬間々々に達成感や喜びがあり、やたら仕事が楽しくなる。
 そして、やはり際限なく働いてしまうのです。

 僕の場合、アドラー思想を知ってから半年間というもの、仕事が楽しくて仕方がないのですが、端から見たら仕事ばかりしている「ワーカホリック」ではないかと思います。たぶん。(笑)
 おそらく、これはアドラー思想から外れているので、少し勉強しないといけません。

2014年8月24日(日) オーディオブック

『嫌われる勇気』のオーディオブックが出ている、という情報をネットで目にしたので調べて購入しました。
 僕は現在までに『嫌われる勇気』を11回読みましたが、実は、そのうちの2回は全編を音読しています。
 僕が繰り返し『嫌われる勇気』を読むのは、内容をより深く理解し、記憶するためです。そのためには音読が有効なのではないかと、やってみたのです。
 現在12回目の通読(黙読)をしていますが、13回目は、オーディオブックを聴きながら本文を読んでみようと思っています。

『嫌われる勇気』は、読むたびに新しい発見や気づきがありますが、オーディオブックを聴きながら読むという新しい方法で、どんな発見があるか、今から楽しみです。

2014年8月23日(土) 『ありのままの自分を認める』

 昨日届いた『ありのままの自分を認める』を読み始めました。
 この本は、岸見先生と並ぶ、アドラー思想研究家である、岩井俊憲先生の著書です。
 岩井先生の本には、ほかに、『マンガでやさしくわかるアドラー心理学』があります。この本もすでに読みましたが、アドラー思想を深めることのできる、よい書物でした。

『ありのままの自分を認める』は、今、43ページまで読んだところですが、岸見先生の文章がどこか「哲学的」であるのに対して岩井先生の本は「プラクティカル(実用的)」な感じがします。
 仕事に悩む若い方々にも、ぜひ読んで欲しい本です。

2014年8月22日(金) 55歳の誕生日

 今日は僕の55歳の誕生日です。
 55歳という、ぞろ目でなんだかゴロのいい誕生日(笑)を、このような幸福で穏やかな心境で迎えられることを、とてもありがたく思います。
 実際、僕は若い頃から「55歳」を人生の大きな区切りとして意識してきました。
 アドラー思想に出会い、心機一転したところで55歳を迎えられたことは幸運であり、今日は、これまで生きてきて最高に幸せな誕生日です。
 あらためて『嫌われる勇気』という書物との出会いに感謝したいと思います。
 そして、アドラー思想の普及に尽力してくださった、岸見一郎先生や、岸見先生が完成させた「岸見アドラー学」を『嫌われる勇気』で、わかりやすく私たちに伝えてくださった古賀史健先生に心から感謝申し上げたいと思います。